サイコセラピー(心理療法)とは、自由な場をつくること

仁泉堂医院

最近、サイコセラピーとは何なのかを、あらためて考えています。

心理療法には、さまざまな技法があります。

認知行動療法には認知再構成や行動実験があり、精神分析には解釈があり、森田療法には「あるがまま」の態度や作業があります。それぞれに理論があり、それを実践するための方法があります。

しかし、そうした技法をいったん脇に置いて考えてみると、もっと根本的なところに、サイコセラピーに共通するものがあるのではないかと思うようになりました。

私が今考えているサイコセラピーの定義は、次のようなものです。

サイコセラピーとは、セラピストとクライアントが場を共にし、それぞれの体験を積み重ねていく過程である。

では、セラピストは何の専門家なのでしょうか。

私は、

セラピストとは、「場の作り方」に熟練した人である。

と考えています。

「治す人」から「場をつくる人」へ

これは、セラピストが何もしなくてよい、という意味ではありません。

むしろ逆です。

クライアントとどのような距離をとるのか。
何を尋ね、何を尋ねないのか。
どこで言葉を挟み、どこで黙っているのか。
クライアントの言葉にどう反応するのか。
自分の中に生じた感情や違和感をどう扱うのか。

こうした一つ一つの選択によって、その場の雰囲気は変わります。

同じ言葉でも、どのような関係の中で語られるかによって意味は変わります。

だから、サイコセラピーでは「何を言うか」だけではなく、どのような場でそれを言うのかが重要になります。

そして、この「場」はセラピストが一方的につくるものでもありません。

セラピストとクライアントの二人が、その場に参加することによって生まれてくるものです。

自由な場とは何か

では、どのような場をつくることが大切なのでしょうか。

私が今のところ行き着いているのは、お互いの自由を束縛しないことです。

クライアントの自由を守る。

これは、心理療法では比較的よく語られることです。

クライアントが何を感じてもいい。
何を話してもいい。
話したくなければ話さなくてもいい。

しかし、私はここにもう一つ付け加えたいと思います。

セラピスト自身の自由も守られなければならない。

これは案外、難しいことです。

「クライアントを尊重しなければならない」と思うあまり、

「こんなことを言ってはいけない」
「否定してはいけない」
「不快にさせてはいけない」
「安心させなければならない」

と、セラピスト自身の行動をどんどん縛ってしまうことがあります。

すると、クライアントの自由を尊重しているように見えて、実はセラピストが不自由になっている。

そして、その不自由さは、やがてクライアントにも伝わります。

反対に、セラピストが「自分は自由なのだから」と自分の思うままに振る舞えば、今度はクライアントの自由を奪うことになります。

だから必要なのは、

クライアントの自由か、セラピストの自由か、という二者択一ではありません。

二人がともに自由でいられる場をつくることです。

セラピストも「あるがまま」でいる

ここには、森田療法との接点があります。

森田療法では「あるがまま」という言葉が大切にされます。

私はこれを、クライアントに対してだけ求めるものではないと思っています。

セラピスト自身もまた、その場で「あるがまま」でいられることが大切なのではないでしょうか。

たとえば、クライアントの話を聴いていて、何かを尋ねたくなる。

そのとき、

「質問してはいけないだろうか」

と考えすぎる必要はない。

逆に、

「セラピストなのだから、何か言わなければ」

と考える必要もない。

話したければ話してもいい。
黙っていてもいい。

共感することもできる。
少し違うと感じたことを伝えることもできる。

ただし、その自由は「好き勝手にする自由」ではありません。

相手もまた自由な存在であることを前提とした自由です。

私はここに、セラピストの熟練があると思っています。

「自由であること」は簡単ではない

自由というと、何にも縛られないことのように思えます。

しかし、心理療法の場における自由は、もっと繊細なものです。

自分の自由を保ちながら、相手の自由も保つ。

自分の感情を持ちながら、相手の感情もそのままにしておく。

自分の考えを持ちながら、それを相手に押しつけない。

相手の反応に影響されながらも、自分の自由まで手放さない。

これは、言葉で説明するほど簡単ではありません。

だから私は、これを一種の「職人芸」だと思っています。

熟練した職人が、素材の状態を見ながら力加減を変えるように、セラピストも、その場で起きていることを感じながら、自分の関わり方を調整していく。

決まった正解があるわけではありません。

むしろ、正解を決めすぎないことそのものが、技芸なのかもしれません。

「治療しよう」としすぎない

ここから、森田療法の「自然服従」という考え方にもつながってきます。

セラピストが、

「この人を良くしなければならない」

「この症状をなくさなければならない」

「この問題を解決しなければならない」

と強く思うほど、セラピスト自身の自由は狭くなります。

そしてクライアントも、

「治らなければならない」
「変わらなければならない」
「正しく行動しなければならない」

という方向に引っ張られていく。

もちろん、治療には目的があります。

しかし、目的を意識することと、目的に自分自身を縛られることは違います。

セラピストが「治療」という目的から少し自由になる。

すると、クライアントもまた、「治らなければならない」というところから少し自由になれる。

そのとき初めて、その人の目の前にある体験を、そのまま経験できる余地が生まれるのではないでしょうか。

セラピストは、答えを持っている人ではない

こう考えると、セラピストの専門性についての見方も少し変わります。

セラピストは、クライアントの問題について「正しい答え」を持っている人ではない。

クライアントを望ましい方向へ導く人でもない。

もちろん専門的な知識や経験は必要です。

しかし、それ以上に大切なのは、

二人の間に生まれてくる体験を邪魔せず、それでいて放置もしないこと。

必要なときには関わる。
必要がなければ待つ。

言葉にすることもあれば、言葉にしないこともある。

そして何より、

クライアントの自由も、自分自身の自由も、同時に保つ。

そのような場をつくることに、セラピストの専門性があるのではないかと思います。

サイコセラピーとは何なのか

最初に提示したサイコセラピーの定義を少し洗練させてみると、

サイコセラピーとは、セラピストとクライアントが、互いの自由を束縛することなく場を共にし、それぞれの体験を積み重ねていく過程である。

そして、

セラピストとは、そのような自由な場をつくり、保つことに熟練した専門家である。

ここでいう「自由」は、何をしてもよいということではありません。

相手も自分も、一人の自由な人間として、その場に存在できるということです。

その二人が出会い、話し、黙り、考え、感じ、時にはすれ違いながら、その場で体験を積み重ねていく。

その過程の中で、これまでにはなかった見方が生まれたり、行動が変わったり、自分自身との関係が変わったりする。

変化は、セラピストが「起こす」ものではないのかもしれません。

自由な場の中で、それぞれの体験が積み重なった結果として、変化が起こる。

私は、今のところそれが、サイコセラピーというものに対する一番しっくりくる捉え方です。

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