私が小学生だった頃、算数の授業で、そろばんを習う時間がありました。
今では、学校の授業でそろばんを使う機会は、ほとんどなくなっているようです。
私が小学生だった当時も、すでに電卓はありました。
そのため、そろばんを真面目に習おうという気持ちには、あまりならなかったように思います。
今でも覚えているのは、そろばんを机の上で転がしたり、手のひらで玉を動かして、その感触を楽しんだことばかりです。
そろばんが使われていた時代には、計算を正確に行うための、とても便利な道具だったのでしょう。
その後、電卓が広く使われるようになると、そろばんは少しずつ使われなくなっていきました。
そして今では、コンピューターの表計算ソフトが一般的になり、電卓でさえ、以前ほど使われなくなっているように思います。
かつて、そろばんを使って仕事をしていた人から、力づくでそろばんを取り上げようとしたら、きっと必死に抵抗したでしょう。
でも、もっと便利な道具が現れれば、いつの間にか、それまで使っていた道具を手放していく。
そんなことが、私たちの生活の中では、自然に起こっています。
生活習慣や、心のあり方についても、同じようなことがいえるのではないでしょうか。
「これをしないと気が済まない」
「健康に良くないと思っているのに、やめられない」
「人間関係で、いつも同じようなパターンになってしまう」
そんなことがあります。
それを「あえてやめよう」とすると、かえって難しくなることがあります。
なぜなら、それまでのやり方にも、その人にとっての役割があったからです。
そろばんを使っていた人にとって、そろばんは必要な道具でした。
それと同じように、今は苦しさにつながっている習慣や行動も、その人がその時々を生きるために、何らかの役割を果たしてきたのかもしれません。
だから、それを無理に取り上げようとしても、なかなかうまくいきません。
むしろ、これまでとは違う可能性が少しずつ広がっていく。
「こんなやり方もあるのか」
「こういうふうにもできるのか」
そんな体験が重なっていくと、いつの間にか、それまで頼りにしていたやり方を使わなくなっていることがあります。
そろばんを捨てようと頑張ったわけではない。
ただ、もっと便利な道具が手元にあったので、そちらを使うようになった。
そんな変化です。
サイコセラピー(心理療法)でも、似たことが起こるのではないでしょうか。
クライアントが苦しんでいるとき、その苦しみを「取り去ろう」とすることが、必ずしも治療の目標になるとは限りません。
その苦しみや、その人が身につけてきた習慣にも、これまで生きてくる中で必要な役割があったのかもしれないからです。
だからこそ、苦しみそのものと格闘するよりも、その人の生き方の可能性を広げていく。
今までとは違う行動をしてみる。
今までとは違う人との関わり方を体験してみる。
そうして、自分の中に新しい選択肢が増えていく。
すると、これまで自分を支えてきたけれど、同時に苦しさも生んでいたやり方を、少しずつ手放せるようになることがあります。
症状をなくすことを急ぐのではなく、その人が生きていく可能性を広げていく。
そのようなところに、森田療法の大切なところがあるのではないかと、私は思っています。

コメント