私は、自転車に乗ることがきっとできるはずです。
最後に自転車に乗ったのは、もう5年以上前のことになります。
いつ、どこで乗ったのか、はっきりとは覚えていません。
では、今、自転車に乗れるでしょうか。
おそらく乗れると思います。
もちろん、少し久しぶりなので、最初は多少ふらつくかもしれません。
自転車の乗り方を、言葉で説明することはできます。
ハンドルを握る。
ペダルをこぐ。
身体のバランスをとる。
原理的には説明できます。
しかし、「身体に向かって言葉で指示を出して、自転車の乗り方を思い出す」ということではありません。
「右に傾いたら、こうして……」
「次は左足を……」
そんなふうに一つひとつ意識しているわけではないでしょう。
実際に自転車にまたがれば、身体が何らかの形で反応するはずです。
そして、たとえ5年、10年と自転車に乗っていなかったとしても、「自転車に乗れなかった自分」に完全に戻ることはないように思います。
ここに、「体験」というものの特徴があるのではないでしょうか。
自転車に乗ったという体験は、意識の中に鮮明な記憶として残っている必要はありません。
「覚えているか、覚えていないか」
「意識の記憶なのか、無意識の記憶なのか」
そうしたことを問わなくてもいい。
乗ったことは、乗ったことです。
私は、こうしたものを**「体験的事実」**と呼んでいます。
体験したことは、体験したこととして残っています。
それを、わざわざ言葉にして整理したり、意識的に記憶したりする必要はありません。
森田療法で「体験を積み重ねる」と言うときにも、私は、このことが大切なのではないかと思っています。
「今日はこれができた」
「昨日より少し良かった」
「この体験を忘れないようにしよう」
と、意識的に記録していくことが目的なのではありません。
実際に体験した。
それで十分なのです。
そして、その体験的事実をもとにして、次の状況の中で、また新しい体験をしていく。
その繰り返しによって、人のあり方は少しずつ変わっていくのではないでしょうか。
だからこそ、過去の自分について、すべてを説明できる必要もありません。
自分がどんな体験をしてきたのかを、完璧な物語にする必要もありません。
大切なのは、今ここから、新しい体験を始められることなのだと思います。
次回は、なぜ私たちは「これまでの自分の物語」から抜け出しにくくなるのか、そして森田療法における「物語」の役割について考えてみます。

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