子どもは、体験することで世界を広げていきます。
「触ってみたら熱かった」
「やってみたら、できた」
「怖かったけれど、やってみたら大丈夫だった」
そんな一つひとつの体験を通して、少しずつ世界について学んでいきます。
体験して、学ぶ。
そして、学んだことをもとに、また次の体験をする。
本来、学習と体験は、このような循環の中にあるのではないでしょうか。
ところが、ある程度人生経験を積んでくると、少し事情が変わってきます。
「これは、こういうものだ」
「自分は、こういう人間だ」
「以前こうだったから、今回もきっとこうなる」
「普通は、こうするべきだ」
これまでの経験から得た知識や理解が、目の前の体験よりも先に立つようになります。
すると、実際に起こっていることを見る前に、「これはこういうものだ」という学習済みの世界像を通して、現在を見てしまうことがあります。
たとえば、子どものころに犬に追いかけられた経験があるとします。
その体験から「犬は怖い」と学習すること自体は、決して悪いことではありません。
むしろ、その学習によって危険を避けることができるようになります。
しかし、その学習が強く残り、「犬は怖い」という知識が目の前の犬を見ることに先行するようになると、穏やかに近づいてくる小さな犬まで怖く感じるかもしれません。
かつての体験によって世界を広げるはずだった学習が、いつの間にか、現在の世界を見る範囲を狭めてしまうのです。
精神医学の学習にも、似たところがあるように思います。
病気について学ぶことは、患者さんを理解するために役立ちます。
しかし、「この症状だから、この人はこうだ」と学習した知識が先に立つと、目の前にいる一人の人間を見る前に、その人を「病気」という枠組みから見るようになることがあります。
知識が増えたにもかかわらず、見えるものが少なくなってしまう。
これは、学習そのものが悪いということではありません。
問題は、学習が体験に先行してしまうことなのではないでしょうか。
森田療法でいう「とらわれ」も、このようなところから考えることができるように思います。
「自分は人前で緊張する人間だ」
「失敗すると、きっと恥ずかしい思いをする」
「こういう状況では、不安になってはいけない」
「以前うまくいかなかったから、今回もうまくいかない」
こうした考えは、これまでの経験から学習されたものです。
だから、それを持っていること自体が悪いわけではありません。
ただ、その学習が現在の体験に先行すると、目の前で実際に起きていることよりも、過去に学んだ「こうなるはずの世界」のほうが大きくなってしまいます。
実際には、思っていたほど緊張しなかったかもしれない。
思ったより相手は気にしていなかったかもしれない。
やってみたら、意外とできたかもしれない。
けれど、その体験を十分に味わう前に、「でも、以前は……」と過去の学習が入り込んでくる。
すると、新しい体験によって世界が更新される機会が失われてしまいます。
体験→学習→次の体験
という循環ではなく、
学習→現在を見る→学習に合うものを確認する
という循環になってしまう。
そう考えると、神経症的な「とらわれ」とは、単に考え方が間違っていることではなく、過去に学習した世界像が、現在の体験よりも先に立ってしまった状態とも考えられそうです。
だからこそ、「考え方を変えよう」とするだけではなく、実際に体験してみることが大切なのかもしれません。
学んだことをいったん脇に置いて、目の前で起きていることに触れてみる。
やってみる。
見てみる。
感じてみる。
その体験から、また新しく学ぶ。
そうして、これまでの世界像が少しずつ更新されていく。
学習を捨てるのではなく、学習よりも体験を先に置いてみる。
そこに、世界をもう一度広げていくための一つの道があるように思います。

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