(短編)声をかけなかった旅人

文学・芸術

ある森に、鳥たちの一族が暮らしていました。

高い木々の間を自由に飛び回り、風を読み、空を渡ることを誇りとして生きていました。
その一族の中で、一人だけ、羽を持たない人間の子どもが育てられていました。

その子は、鳥たちに大切にされていました。
食べ物を与えられ、寒さから守られ、「いつか立派に飛べるように」と、毎日熱心に育てられていました。

朝になると、子どもは木の枝に連れて行かれます。

「羽を広げるんだ」
「怖がってはいけない」
「何度も練習すれば飛べるようになる」

鳥たちは真剣でした。
意地悪をしているわけではありません。
むしろ、その子のためを思っていました。

子どもも、一生懸命でした。
みんなを困らせたくありませんでしたし、自分も飛べるようになりたいと思っていました。

けれど、何度やっても、落ちてしまうのです。

それでも鳥たちは言います。

「まだ練習が足りない」
「諦めてはいけない」
「きっと飛べるようになる」

子どもも、自分に言い聞かせます。

「もっと頑張らなければ」
「怖がる自分が悪いのだ」
「うまく飛べないのは、自分の努力が足りないからだ」

そうして長い時間が過ぎました。

ある日、その様子を、一人の旅人が森の外れから眺めていました。

子どもは、また木から落ちました。
少し休むと、黙って立ち上がり、また枝へ登っていきます。

鳥たちは、励ますように羽を鳴らしていました。

旅人は、その場を動けずにいました。

「もう飛ぶ練習なんてやめなさい」

そう言いかけて、言葉を飲み込みました。

鳥たちには、鳥たちなりの歴史がありました。
この子もまた、その中で育ってきたのです。

飛ぶことは、苦しみであると同時に、この森で生きていくための意味でもあるように見えました。

夕方になり、風が強くなってきました。

鳥たちは次々と空へ飛び立っていきます。
子どもは、一人で木の根元に座っていました。

そして、空を飛んでいく鳥たちを、しばらく黙って見上げていました。

旅人もまた、森の外れに立ったまま、その場を離れずにいました。

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