戦争をなくすために、私たちができること

人間・社会

最近、毎朝、ラジオから戦争のニュースが流れてきます。

そのたびに、気持ちが沈みます。

遠い国の出来事のようで、どこか無関係ではいられない。

そんな感覚があります。

戦争をなくす方法について語る前に、

私たちがあまり直視したがらない事実があるように思います。

それは――

人は誰しも、「自分にとって都合のよいように生きたい」と願っている存在であるということです。

本来、それは自然なことです。

生きるとは、自分にとって有利な選択を重ねていくことでもあります。

しかし、この事実はしばしば覆い隠されます。

「自分のために」とは言いにくいために、別の言葉が使われるのです。

「誰かのために」

「正しいことのために」

「守るために」

一見すると利他的で正当な理由に見えますが、

その内側にあるのは、自分の都合を通そうとする力でもあります。

たとえば――

「子どものために」と言いながら、学校に強く要求を突きつける親。

「家族を侮辱されたから」として、暴力に訴える人。

「世界平和のために」と掲げながら、他国に攻撃を加える国家。

これらはすべて、

“身近な人や大義のため”という形をとりながら、自分の都合を力で押し通そうとする行為として見ることもできます。

もちろん、その背景には切実な思いや事情があります。

しかし、「誰かのため」という言葉が前面に出たとき、

私たちはその奥にある「自分の都合」を見えにくくしてしまうのです。

そして、自分の都合を自覚していないと、

他者が同じように都合で動いていることを強く非難するようになります。

そのすれ違いが積み重なると、

対立は次第にエスカレートし、やがて取り返しのつかない衝突へと至ります。

戦争もまた、その延長線上にあるのではないでしょうか。

もちろん、目先の都合のよさに従うだけでは、うまくいきません。

むしろ長い目で見れば、大きな不利益につながることも少なくありません。

だからこそ私たちは、経験から学びます。

社会の中で生きるために、「どこまでの都合なら通してよいのか」を少しずつ身につけていきます。

戦争とは、その調整が壊れてしまった状態とも言えます。

誰もが何かを守ろうとして、結果として誰もが大きな痛みを受ける。

その痛みの記憶は、本来であれば抑止力になるはずですが、

体験した世代が去るにつれて、少しずつ薄れていきます。

だからこそ、あらためて立ち返る必要があります。

私も、あなたも、そして国家もまた、

それぞれの都合を持ち、それを通そうとする存在であるという事実に。

それを否定するのではなく、まず認めること。

「誰かのため」という言葉の裏にある、自分の意図にも目を向けること。

そこから初めて、力に頼らない調整や対話が可能になるのだと思います。

戦争をなくすための第一歩は、

遠い国の出来事を変えることではなく、

自分の中にある「都合」と、その通し方を見つめ直すことなのかもしれません。

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