ふと気づくと、私は自分自身と対話をしている。
たとえば山を走っているとき。
呼吸は乱れていないだろうか、ペースは速すぎないだろうか。
栄養や水分の補給は、今の身体にとってちょうどよいだろうか――。
そんな問いを、自分に静かに投げかけ続けている。
同じことが、診療の場でも起こっている。
患者さんと向き合い、言葉を交わしながら、同時に私は自分の内側とも対話している。
いま、この言葉をどのように感じたのか。
その感覚は、これまでのどの体験に似ているだろうか。
別の患者さんとの対話の中で覚えた感覚に近いのかもしれない。
あるいは、かつて自分が経験した、あの場面と重なるものかもしれない。
この言葉は、別の表現に置き換えられるだろうか。
人が無意識に陥りやすい「パターン」があるとすれば、それはどのようなものだろうか――。
こうして、患者さんとの対話は、私自身の内側に新たな問いを生み出していく。
一見すると、患者さんの問いに応えているようでいて、実際には、患者さんの語りをきっかけに自分の中に立ち上がった問いに向き合っている。
そんな感覚になることがある。
私は、この在り方を大切にしている。
なぜなら、患者さん自身の中から生まれた問いに、私が直接答えを与えることは、本来の筋から少し外れているように感じるからだ。
その問いには、患者さん自身が向き合い、答えを見出していくことが自然であり、その過程こそが、その人らしい生き方へとつながっていくのではないかと思う。
だから私は、あくまで自分の中に生まれた問いに誠実に向き合い、その答えを探し続ける。
その営みの中で、結果として患者さんが「先生からアドバイスをもらった」と感じてくださることもある。
しかし実際には、私はただ、自分の中の問いに向き合い続けているに過ぎない。
そして、もしその問いに行き詰まったときには、無理に結論を出そうとはしない。
そのまま日常へと戻り、普段の生活を送り、身体を動かし、また山を走る。
すると、問いは問いのまま静かに熟していく。
やがて、答えとして言葉になるというよりも、「問い続けることそのもの」が、ひとつの答えの形となって、自然と自分の生き方に溶け込んでいく。
言葉にすれば簡素ではあるが、私の診療の体験は、このような感覚の中にある。

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