弁当箱を洗いながら、ふと考えました。
最近の弁当箱は、とても便利にできています。パッキンの構造によって中身が漏れにくくなっていたり、断熱構造によって熱いスープまで持ち運べたりします。
ところが、いざ洗うとなると、その便利な構造がかえって厄介です。樹脂製のパッキンには細かな溝があり、スポンジが届きにくいのです。
こんなときには、食洗機があると便利なのだろうなと思いました。
そして、ふと、おかしなことに気づきました。
「道具の問題を、別の道具で解決するのか?」
便利な道具を使うことで生じた面倒くささを、さらに別の道具を使って解消しようとしている。なんだか、少しおかしくなってきました。
人間は元来、面倒くさがり屋なのではないか
人間とほかの動物との違いとして、「道具を使うこと」が挙げられることがあります。
しかし、そもそも人間が道具を使い始めたのは、面倒くささがきっかけだったのではないでしょうか。
もっと楽に食べ物を手に入れたい。もっと少ない労力で遠くまで移動したい。手間を省きたい。そうした思いが、さまざまな道具を生み出してきたのかもしれません。
そう考えると、人間の文明の発展は、面倒くささを背景にして進んできたとも言えそうです。
学校や職場では、面倒くさがることを否定的に指摘される場面が少なくありません。しかし、面倒くさいと感じること自体は、決して否定されるものではないのでしょう。
むしろ、面倒くさいという感覚があったからこそ、人間は工夫し、新しいものを生み出してきたのかもしれません。
面倒くささを解消しすぎると
ただ、少し気になることもあります。
面倒くささを解消するために生み出された道具が、今度は私たちの手足を動かす機会を減らし、さらには自分で考える機会まで減らしているとしたらどうでしょうか。
便利さを追求することによって、かえって人間の活動の幅が狭くなってしまう。そんなことも起こり得るように思います。
面倒くさがることを否定したくなる場面では、面倒くささそのものを否定するのではなく、道具に頼りすぎていないか、少し立ち止まって考えてみてもよいのかもしれません。
手間をかけることの面白さ
私が、面倒くさいと感じながらも、何でもかんでも面倒くさがってしまうわけではないのは、手間をかけたときに感じる面白さや喜びを、これまでに何度も体験してきたからかもしれません。
例えば、キャンプなどのアウトドアライフを楽しむ人たちも、そうした体験を求めている部分があるのではないでしょうか。
普段なら便利な道具に任せてしまうことを、自分の手でやってみる。火を起こしたり、食事を作ったり、自然の中で過ごすために、あえて手間をかける。
そこには、効率や便利さだけでは得られない楽しさがあります。
今は、自分仕様の空間をつくり、自分仕様の情報の中に閉じこもることもできる時代です。面倒なことを避け、快適さを追求することも、以前よりずっと容易になりました。
だからこそ、あえて手間をかけてみることにも、意味があるように思います。
面倒くさいことを、すべてなくしてしまわなくてもよい。
ときには、面倒くささをそのまま引き受けてみる。そこに生まれる発見や楽しさを味わってみる。
そんな時間もまた、大切にしたいと思います。

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