私は時折、動物園で暮らす動物たちを眺めながら、
「この子たちは幸せなんだろうか?」
と、思うことがあります。
餌ももらえる、天敵にも襲われない、医療も整っている。
それでも、彼らの目がどこか遠くを見つめているように感じるのは、私だけでしょうか。
■ 安心はある、でも自由は?
動物園の動物は「安全と秩序」に守られています。
一方、野生の動物たちは、食べ物を探し、敵から逃れ、時には仲間と協力しながら、不確実な日々を生き抜いています。
どちらが幸せか、単純には言えません。
ただ、「どちらに親近感を覚えるか」は、その人の生き方の傾向を映す鏡になる気がします。
私は、野生の動物に親しみを感じます。
不確かで、厳しくても、本来のリズムで生きているその姿に惹かれるのです。
■ 秩序と安心を求めすぎると、心は縛られる
ここでふと、神経症との関係を考えてみたくなります。
神経症に悩む人は、多くの場合、「安心」「安全」「コントロールできる状況」を強く求めます。
たとえば:
- 体調の揺らぎが許せず、健康不安が止まらない
- 人間関係での小さな誤解や評価が、頭から離れない
- 完璧でなければ不安になり、日常がままならなくなる
これらは、いわば「心の動物園」に閉じ込められているような状態かもしれません。
安心の中にいながら、どこかで「本当の自分らしさ」や「自然なあり方」を感じられない。そんな閉塞感です。
■ 自然は不確実、でも私たちは適応できる
野生の動物がそうであるように、人間にも本来、不確実な環境の中で生きのびる力があります。
むしろ、多少の揺らぎや混乱の中でこそ、感覚が目覚め、体と心が連動し、生きている実感が育まれていくものです。
「安心」と「秩序」だけでは、本当の意味での回復は訪れません。
不確かさに耐え、不完全な自分を受け入れ、自然と共に在る時間の中で、
私たちは次第に「心の野生」を取り戻していきます。
■ 本当の安心は、自然の中にある
神経症的な傾向から抜け出すには、「不安をなくすこと」ではなく、
「不安があっても、生きられること」を体験する必要があります。
それは、制度の外側、予定調和の外側、つまり「自然の側」にこそあるのかもしれません。
動物園の檻を開けるように、
私たちの心も、少しずつ自然の風に触れてみることで、
驚くほど自由に、そして穏やかに、なっていくのです。
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