同じ時間を過ごしていても、それぞれ違う現実を生きている

日常

週末に、高校の同窓会に出席しました。

私自身が群馬に定住したこともあり、また、もともと社交的な性格でもないため、ほとんどの同級生とは30年ぶりの再会でした。

久しぶりに顔を合わせ、当時の話をするなかで、いくつか興味深いことがありました。

私のことを覚えてくれていた同級生の何人かは、音楽の実技試験の前に、私が発声練習をしていた場面が印象に残っていたそうです。仲間内では、私のことを「ミ」と呼んでいたらしいことも知りました。

ところが、私自身には、発声練習をしていた記憶さえ残っていません。

自分では覚えていない出来事が、誰かの記憶には、私を思い出す手がかりとして残っている。そのことが、なんだか不思議に感じられました。

高校2年の2学期から3学期にかけて、骨折で入院し、長期間学校を休んでいた同級生もいました。その同級生は、当時の焦りが最も記憶に残っていると話してくれました。

しかし、私は、その同級生が長期間欠席していたこと自体、30年以上忘れていました。

また、高校1年のときに同じクラスだった同級生が、同窓会の受付を担当していました。どうやら、私のことを思い出せなかったようです。そこで、昼休みに一緒にサッカーをしたことを伝えてみました。

すると翌日、その同級生から、当時の記憶がよみがえってきたとメールが届きました。

こうした出来事を通して、改めて興味深く感じたことがあります。

同じ学校に通い、同じクラスで時間を過ごしていた仲間であっても、それぞれに感じていたこと、見ていたもの、記憶に残っていることは、ずいぶん違っていたのです。

それぞれが生きている現実

私たちは、同じ場所にいて、同じ出来事を経験していれば、相手も自分と似たような体験をしていると思いがちです。

でも実際には、同じ出来事であっても、何に目が向き、何を感じ、何が記憶に残るかは、人によって違います。

自分にとって印象深い出来事が、相手にとっては何でもないことだったりします。反対に、自分ではすっかり忘れている出来事が、相手にとっては忘れられない記憶になっていることもあります。

現実というのは、とても個人的なものなのだと思います。

自分は自分の時間と空間を生きていて、他人は他人の時間と空間を生きている。

当たり前のことなのですが、普段の生活では、つい忘れてしまいます。

自分の思いは相手にも理解できるはずだと期待したり、自分の記憶を相手も同じように覚えているかのように話したりすることがあります。

しかし、どれほど長い時間を一緒に過ごしていても、お互いが経験していることのすべてを共有できるわけではありません。

今回の同窓会は、30年ぶりの再会だったからこそ、互いの記憶をすり合わせる機会がほとんどないまま時間が経過していた、ひとつの記憶実験の結果を見ているようでもありました。

それぞれの記憶は、同じ過去を扱っているようでいて、実際には違うものを映し出していたのです。

違う現実を、少しずつ重ね合わせる

こうしたことは、日常の人間関係や、心理療法の場でも大切な意味を持つように思います。

とくに、神経症的な悩みが強くなっているときや、家族などの関係が行き詰まっているときには、自分が見ている現実と、相手が見ている現実とが、いつの間にか同じものであるかのように扱われてしまうことがあります。

自分には当然に思えることが、相手にはそうではない。自分が心配していることを、相手も同じように心配しているとは限らない。自分が相手のためだと思ってしていることが、相手には別の意味を持って伝わることもあります。

その違いが見えなくなると、相手の言動が理解できなくなったり、自分の考えをわかってもらおうとするあまり、かえって関係が窮屈になったりすることがあります。

だからといって、お互いの違いを完全に理解し合う必要がある、ということでもないのでしょう。

そもそも、相手の現実をすべて知ることはできません。自分自身のことさえ、いつも十分にわかっているわけではないのです。

大切なのは、自分と相手とでは、見えているものが違うかもしれないと気づくこと。そして、話をしたり、一緒に何かを体験したりするなかで、それぞれの現実を少しずつ重ね合わせていくことなのかもしれません。

今回の同窓会でも、私が忘れていた記憶を同級生が教えてくれたり、私が伝えた出来事をきっかけに、相手の記憶がよみがえったりしました。

どちらか一方の記憶が正しく、もう一方が間違っているということではありません。それぞれの記憶が持ち寄られることで、当時の出来事が、以前とは少し違った姿で見えてきたのです。

セラピーも、どこか似ているのかもしれません。

治療者が相手のことを理解し、説明できるようになることだけが目的なのではありません。治療者とクライアントが、それぞれ異なる現実を生きていることを認めながら、互いの体験に触れ、少しずつ共有できるものを見つけていく。

その過程そのものが、セラピーの大切な要素なのではないかと思います。

同じ時間を過ごしていても、私たちは、それぞれ違う現実を生きています。

その違いをなくそうとするのではなく、違いがあるままに、互いの現実が少しずつ重なり合っていく。

30年ぶりの同窓会は、そんな当たり前のことを、改めて教えてくれる機会になりました。

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