「どうして家族はわかってくれないんだろう」
「医者に話しても、何かズレている気がする」
そんなふうに感じたことがある方は、少なくないと思います。
誰かに自分のことを「わかってほしい」という思いは、心がつらいときほど強くなるものです。
けれど、実はこの「わかってほしい」という気持ちが、私たちを苦しめていることがあるのです。
本当に自分をわかってあげられるのは、誰か?
私たちはつい、「誰かがわかってくれれば、楽になる」と思いがちです。でも、どんなに親しい相手でも、自分のすべてを完璧に理解することはできません。
それでも人は、ふとした瞬間に「この人は、わかってくれている」と感じることがあります。
それはどういうときなのでしょうか?
実はその瞬間、私たちは「自分で自分のことに気づけた」──つまり、自分をわかってあげられたという体験をしているのです。
対話がくれる「ヒント」
他人との会話や関係性は、しばしばそのきっかけになります。
自分と相手の「違い」に気づいたとき、人は自分の価値観や願いに目を向けることができます。
たとえば、
- 過干渉な人にイライラしたとき、「自分は自由を大事にしているんだ」と気づく
- 依存的な人にモヤモヤしたとき、「自分は自立を求めているんだ」とわかる
こうした気づきは、ときに不愉快な体験の中にこそ潜んでいます。
「理解する側」だった私自身の気づき
私は精神科医として、長く「患者さんを理解しなければ」と努力してきました。
でも今は、それがどこか傲慢な姿勢だったのではないかと感じています。
本当の意味で人を理解することは、とても難しい。
私にできるのは、その人が「自分で自分をわかってあげられる」ようになるためのヒントを、コミュニケーションの中で探していくことだけです。
「わかってほしい」と願う気持ちを否定する必要はありません。
ただ、それがかなわないときに、自分を責めたり、相手を否定したりしないでほしいのです。
その感情すらも、自分を知るための入り口なのかもしれません。
自分をわかってあげるということ
誰かとの関係の中で、自分の内面に光が当たることがあります。
他者との違いに気づくことで、「自分が大切にしているもの」が見えてくる。
そうやって、自分で自分をいたわり、理解し、育てていく。
そんなプロセスを、私は医師として、いえ、一人の人間として、これからも大切にしていきたいと考えています。
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