「診断しない」という考え方
私はときどき、「診断しない」という言葉を使うことがあります。
ここで言う診断とは、症状の組み合わせによって分類される診断のことです。精神医学では、たとえば DSMや ICDといった基準がよく用いられます。
これらは本来、公衆衛生の分野で統計処理を行うために作られた分類です。しかし現代では、精神医療の現場でも広く用いられています。
ただ実際には、これらの診断名がつけられても、それが必ずしも最適な治療につながるとは限りません。むしろ、そうならないことも少なくありません。
症状ではなく、生活を見る
特に神経症の場合は、その傾向が強いように思います。森田療法の視点で言えば、神経症とは、精神交互作用によって特定の感覚や考えにとらわれてしまう状態です。
このとき大切なのは、症状そのものよりも、その人がどのような行動や生活パターンの中でとらわれているのかという全体の状況です。
神経症の治療では、症状を細かく分類することよりも、生活の流れがどこで滞っているのかを見ることの方が大切だと、私は考えています。
ところが、症状を基準にした診断を中心にしてしまうと、治療者や支援者の側まで、症状そのものにとらわれてしまうことがあります。
そのため私は、神経症の治療においては「診断しない」という姿勢を選んでいます。
なぜ診断が必要とされるのか
では、なぜ「診断しない」精神科医はほとんどいないのでしょうか。
理由はいくつかあると思いますが、その一つは、薬を処方するためには診断が必要だからです。
薬には作用と同時に、副作用があります。そのため、新しい薬が作られ、医師が処方できるようになるまでには、有効性と安全性を確かめるための試験が行われます。
その試験では、被験者を集める基準として診断が用いられ、効果や副作用の判定も、症状のリストによって行われます。
そのような試験の結果として承認された薬は、そのとき用いられた診断に合致する対象に対して使われることを前提としています。つまり、診断と薬の処方は、制度の上でも強く結びついているのです。
仁泉堂で大切にしていること
私は仁泉堂を、薬をまったく使わない場にしました。そのことで、統計のための診断にとらわれずに、治療に取り組むことができるようになりました。
もし皆さんが、DSMやICDに基づく診断名を告げられたとしたら、どのように感じるでしょうか。
「正しい診断がついた」と安心するでしょうか。
もちろん、そのように感じる方もいると思います。
しかし私は、少なくとも神経症の治療においては、これらの診断は思ったほど役に立たないことが多いように感じています。それどころか、症状そのものへのとらわれを強めてしまうこともあるように思います。
私自身も、ときには神経症的な心の動きが強くなることがあります。そんなとき、診断名や症状の説明を受けるよりも、自分の中で滞っていたものが、再び流れ出していくような体験ができる場を求めます。
仁泉堂が、そんな場であればと思っています。

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