森田療法で用いられる「あるがまま」という言葉は、一見シンプルで明快に思えるかもしれません。しかし、実際には二つの異なる意味を内包しており、これがこの概念を深く、また捉えにくいものにしています。その二つの意味を理解することは、「あるがまま」が持つ意義をより明確にする助けとなります。
今この瞬間の「あるがまま」
一つ目の「あるがまま」は、現在の自分の状態をそのまま受け入れることを指します。たとえば、自分の能力や限界、あるいは置かれた状況を無理に変えようとせず、そのまま認めることです。これは、身の丈に合った行動を受け入れる姿勢ともいえるでしょう。
この受け入れの態度は、「エアコンとストーブ」の話に通じます。部屋を快適にしたいのに、リモコンを見つけられないままストーブを使った結果、かえって部屋が寒くなってしまう――これは、自分の現状を冷静に見られないまま、表面的な解決策に固執してしまうことの例です。問題を根本から解決するには、一度立ち止まり、状況全体を整理して見ることが必要です。それは、まず「今、ここ」の自分を受け入れるところから始まるのです。
潜在的な「あるがまま」
もう一つの「あるがまま」は、自分の中に潜んでいる、今はまだ意識できない部分を含むものです。これは、C.G.ユングが「自己」と呼んだ概念にも通じます。成長や変化の可能性を含む「潜在的な自己」を指しており、森田療法の「あるがまま」は、この潜在的な自分の姿も含んでいます。
つまり、「あるがまま」とは変化しうるものであり、今の自分を受け入れるだけでなく、そこから新たな自分への変化を求める側面も持っているのです。これが「あるがまま」が一筋縄では理解しにくい理由の一つです。
矛盾を超えて
「あるがままを受け入れろ」と「あるがままに変われ」という二つのメッセージは、一見すると矛盾しているように思えます。しかし、これらは実は異なる階層に属するため、両立しうるのです。この考え方を説明するのに、以前ブログで取り上げた「スーパーマリオの階層的視点」が参考になるでしょう。
マリオのゲームを例にすると、「敵に触れたら死ぬ」と考えるのはゲーム内の一瞬の出来事(第1層)に焦点を当てた視点です。しかし、「ライフが3つあるからまだ大丈夫」と考えるのは、少し広い視点(第2層)です。そして、「プレイヤーが生きている限りゲームは何度でも挑戦できる」と考えるのは、さらに広いメタ的な視点(第3層)です。これらの視点は見ている階層が異なるため、どれも正しく、矛盾しません。マリオのライフを100体に増やすことに固執するよりも、3体であることを受け入れた方が、ゲームオーバーを過剰に怖がる必要がないことに、むしろ早く気づくことができるのです。
森田療法における「あるがまま」も、同じように階層的に理解できます。目先の変化を諦めることで、より上位の欲求に基づく変化が起こり得るのです。
「あるがまま」を生きること
森田療法が示す「あるがまま」は、今の自分をそのまま受け入れることから始まります。しかし、それは現状に甘んじることを意味するわけではありません。むしろ、その受け入れを通じて、潜在的な自己――本当の「あるがまま」へと向かう変化が起こるのです。
「あるがまま」を体得する
ここでお伝えしてきた内容は、あくまでも論理的に「あるがまま」を解釈する方法です。しかし、「この記事を読んでもよくわからない」という方も多いかもしれません。それも無理はありません。
まさに森田療法の「あるがまま」は、知的な理解だけでは不十分であり、身体を通じて体得することで、初めて腑に落ちるものです。この記事の内容にとらわれすぎず、まずは「あるがまま」を生きるという姿勢を大切にしてください。
当院での診療では、知的な理解を重視するだけでなく、行動を通じて「あるがまま」を体得するお手伝いをしています。気軽にご相談ください。あなた自身の「あるがまま」を見つける旅を、私たちが全力でサポートいたします。
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