以前、「“できない”という言い方をやめてみよう」というテーマでブログを書いたことがあります。
たとえば「朝起きられない」というのは、実際には「起きようと思えば起きられるけれど、起きないでおこうと選んでいる」という行動の問題として見ることができます。
この視点の大切さを、改めて考えてみたいと思います。
「できるけど、しない」という態度
医療の現場でも、同じような場面があります。
私は薬物療法の有効性も理解していますし、必要なときには処方を行ってきました。
それでも、仁泉堂医院では、あえて「使わない」という選択をしています。
それは、「できるけど、しない」という姿勢が、人間の成熟を支えるからです。
「できない」からしないのではなく、
「できるけど、あえてしない」という自由な選択。
この違いは、私たちの心に大きな差を生みます。
「できない」ということの危うさ
「できない」という言葉の裏には、依存の芽が潜んでいます。
たとえば、畑を耕すこと、家を建てること、服を縫うこと、火を起こすこと――
私たちは、こうした生きるための基本的な営みを、専門家や機器に任せるようになりました。
それ自体は悪いことではありません。
しかし、「自分にはできない」という感覚が身体に染みついてしまうと、
いざというときに、人は無力感にとらわれてしまいます。
「できる」を増やすほど、不安は減る
災害のように、いつもの仕組みが機能しなくなる状況では、
自分の手で行う力が問われます。
火を起こす、食べ物を確保する、身を守る――
その「できる」が多いほど、人は生き残る確率が高くなるだけでなく、
普段の生活でも安心して暮らせるようになります。
身体のどこかで「自分には生きる力がある」と感じていれば、
日常の小さな不安にも、必要以上に振り回されなくなります。
「できるけど、しない」へ
私たちは、なんでも自分でやる必要はありません。
けれど、「できるけど、しない」という余裕を持てるようになると、
他者に頼ることも、委ねることも、主体的な選択になります。
衣食住の基本から、自分の体や心の扱い方まで、
できることを少しずつ増やしていく。
その積み重ねが、
自分の生を信じられる安心感――
つまり、「生きる力」になるのだと思います。
まとめ
「できない」という言葉を、「まだできていない」や「今回はしない」に言い換えるだけで、
自分の中に残された可能性が見えてきます。
行動の選択肢を持つこと。
そして、その中から「しない」ことを自由に選べること。
そこに、心の健康と生きる安心が宿ります。

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