哲学者デカルトは、「我思う、ゆえに我あり(Cogito ergo sum)」という言葉を残しました。
「考えている私の存在は否定し得ない」――思考によって自我を証明するこの言葉は、とても有名です。
ですが私は、森田療法を土台としながら自然適応療法という形を模索する中で、別の言葉を思いつきました。
「我選ぶ、ゆえに我あり」
自分の中に、いくつもの「私」がいるとき
人は日々、迷いながら生きています。
- 外に出たい。でも、人に会うのは気が重い。
- やりたいことがある。でも、失敗したらどうしよう。
- 休みたい。でも、約束は守りたい。
どれが“本当の私”なのか分からなくなることもあります。
実際、診察室でも「私は何がしたいのか分からない」「本当の気持ちが見えません」と悩む方によく出会います。
「私」をつくるのは、選んだ行動
こうした複雑な気持ちの中で、何かを選ぶとき。
どちらかに決めて、動くとき。
その瞬間こそが、「私」という存在をかたちづくっているのではないかと、私は感じています。
- 不安を抱えながらも、一歩を踏み出す
- 責任を感じながらも、休む決断をする
- 迷いがありながらも、自分なりのやり方で進む
「選ぶこと」は、自分に戻ることでもあるのです。
「私」が曖昧に感じられるとき
自分が何者なのか、よく分からない。
自分の気持ちがハッキリしない。
何をしていても、生き生きとした実感がわかない。
そう感じるときは、選択する力が少し弱っているのかもしれません。
言い換えれば、「自分の意思で動く」感覚が遠ざかっている状態です。
自然の中で、選び直す
自然適応療法では、社会制度的な環境や役割から一度離れ、自然の中で身体を使いながら過ごす時間を大切にしています。
それは、「考える」より先に、「選んで動く」ことを取り戻すためです。
誰かに決められたルールではなく、
「今日はこの道を歩いてみよう」
「この岩を越えてみよう」
「今日はここまでで下山しよう」
そうした小さな選択の積み重ねが、自分の輪郭を取り戻すことにつながります。
我選ぶ、ゆえに我あり
「私はどうしたいのか」ではなく、
「私は何を選ぶか」を大切にする。
迷いがあってもかまいません。感情が揺れていても、かまいません。
その中で、一歩を選ぶことこそが、自分を生きるということだと思うのです。
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