前回の記事では、「できるけど、しない」という生き方の大切さについて考えました。
今回は、その考えを「社会に適応できない」と言われる人たちの問題に当ててみたいと思います。
「適応できない」とは、誰の視点か
発達症のある方や、いわゆる「社会に馴染めない」とされる人に対して、
「社会に適応できない」という表現がよく使われます。
近年では「適応が困難」といった柔らかい言い方もされますが、
根本にある価値観はあまり変わっていません。
けれども、もしその人が「できない」のではなく、
「しない」として生きているのだとしたら、どうでしょうか。
つまり、「合わせようと思えばできる。けれど、そうはしたくない」と。
この可能性を、私たちはどれだけ考えてきたでしょうか。
「できない」と見なす社会、「しない」と生きる個人
社会は、ある基準に適応することを前提として成り立っています。
そこから外れる人に対して、「できない」「問題がある」というラベルを貼りがちです。
しかし、彼ら彼女らの中には、
社会に合わせる力を持ちながらも、
その在り方に疑問を抱き、あえて「しない」選択をしている人もいます。
その場合、問題は本人にあるのではなく、
「しない自由」を許容できない社会の側にあるのではないでしょうか。
「しない自由」を認めるという成熟
「できるけど、しない」というのは、
未熟さではなく、むしろ成熟した自由の現れです。
他者と異なる選択をしても、
その人なりの理由と感受性を持って生きている。
そこに、人間の多様性と尊厳が宿っています。
社会が本当に成熟するというのは、
「すべての人を適応させること」ではなく、
「しない人の存在を脅かさないこと」だと思うのです。
結びに
「適応できない」とされる人たちは、
もしかしたら、私たちよりもずっと深い意味で“自由”なのかもしれません。
社会の仕組みの方こそが、
「できるけど、しない」生き方をどこまで受け入れられるのか。
それが、これからの共生のかたちを左右するように思います。

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