若い頃の私は、圧倒的に概念の世界にいました。
小説よりも論説文や科学書、絵画よりも地図帳やデータ集のほうが好きでした。読めば「わかった気になる」し、見れば「把握した気になる」。そこに安心感と手応えがあったのです。
けれども、年齢とともに少しずつ変わってきました。
博物館と同じくらい美術館が面白くなり、説明のない絵や、結論のない物語にも惹かれるようになりました。これは私だけの変化ではないでしょう。多くの人が、人生のある地点から、言葉にならないものや、役に立たないものに価値を感じ始めるように思います。
それはおそらく、人生の前半と後半で、必要な世界の扱い方が違うからです。
人生の前半では、概念がとても役に立ちます。
知識や技術を身につけ、社会の中で居場所をつくり、生き延びるためには、世界を整理し、割り切り、効率化する力が必要です。概念の世界は、私たちを守り、導いてくれます。
しかし後半になると、同じやり方が少しずつ苦しさを生みます。
すでに生きる基盤はあるのに、それでもなお「役に立つか」「意味があるか」「成果が出るか」で自分を測り続けてしまうと、人生はどこか乾いていきます。
本来なら、ここからは感覚の世界を生きる時間なのだと思います。
風の冷たさ、木の匂い、人の声の揺れ、理由のない懐かしさ。そうしたものを、そのまま受け取る力が、後半の人生をそっと支えてくれます。
ところが現代社会は、新しい知識や技術を次々に生み出し続けます。
その結果、私たちはいつまでも「人生の前半用の生き方」を続けることを求められがちです。学び続け、更新し続け、競争し続けることが、良いことのように扱われます。
それ自体は決して悪いことではありません。
ただ、概念の世界だけで生き続けていると、人は自分の内側の風景を見失いやすくなります。何を感じているのか、何が好きなのか、何に心が動くのかが、わからなくなってしまうのです。
私は、できるだけ人生の後半を味わった上で、この世を去りたいと思っています。
「わかる世界」だけでなく、「感じる世界」を生きたと言える状態で、人生を終えたいのです。
概念と感覚。
そのどちらか一方ではなく、そのあいだを行き来しながら生きること。
それが、人間として自然な生のかたちなのではないでしょうか。

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