ノーサイドの先にあるもの

日常

大学医学部時代、私はラグビーに情熱を注いでいました。卒業してから23年の時が流れましたが、今でも現役の部員たちが定期的に試合結果や活動報告をOBである私たちに届けてくれます。そのおかげで、私は母校のラグビー部とのつながりを持ち続けています。

先日、その絆を改めて感じる機会がありました。今年度の卒業生を祝うイベントの一環として行われたOB戦に参加したのです。ラグビーボールに触れるのは実に23年ぶりでしたが、日頃からランニングを続けているため、走ることや持久力にはある程度の自信がありました。試合では、学生部員たちのタッチフット(タックルなしのラグビーゲーム)に加わり、一緒にプレーを楽しみました。かつて試合中に発していた掛け声が、無意識に口をついて出るほど熱中し、懐かしさとともに、充実した時間を過ごすことができました。

ラグビーには「ノーサイド」という言葉があります。試合が終われば敵味方の区別なく、すべての選手が仲間として称え合うという精神を表したものです。現在は英語圏では使われておらず、日本でしか用いられることがない言葉となってしまいましたが、私は東洋らしさを示す大切な言葉だと思っています。この言葉から、私はある考えが浮かびました。

人の一生において、病気や死はある種の「敵」と言えるかもしれません。特に私は医師という職業柄、日々それらと向き合い、戦い続けています。しかし、どれだけ抗っても、人は最終的に死を迎える運命にあります。その瞬間、私たちは「この世」と「次の世界」のノーサイドを迎えるのではないか。つまり、死は敵ではなくなり、自然の一部として私たちは溶け込んでいくのかもしれません。

だからこそ、私は今を大切にし、できる限り健康でいられる選択をし続けたいと考えています。とはいえ、自分の人生がどのような試合となり、ノーサイドを迎える直前にどんな心境になるのか──それはまだ予想できません。ただ、今を懸命に生きることで、その時を迎えたとき、少しでも穏やかな気持ちでいられるよう願っています。

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