家にいる私と、診察室にいる私。同じ「私」でありながら、どこか違う。診察室の中でも、診療所の管理者としての私と、治療者としての私ではまた異なる面があるように感じます。さらにいえば、Aさんの診察中の私と、Bさんの診察中の私もまた違う。先月Aさんと話した時の私と、今月Aさんと話している私でさえ、別の「私」かもしれません。
診療所で診察をする日、こうして振り返ると、数十もの「私」が切り替わりながら過ごしているような感覚があります。
私を切り替えるのは、どうやら「何をしているか」や「目の前にいる人」が大きく関係しているようです。ただし、完全に別人になるわけではありません。逆にいうと、「変わらない私」とは何だろう、と考えることがあります。
そんな時、私の心を庭に例えるとしっくりきます。ただの庭ではなく、群馬県くらいの広さをイメージしてみてください。そこにはさまざまな生き物が住んでいて、そのすべてが私の一面を表しています。
ときには県知事のように全体を管理する役割を担い、またあるときには庭を行き交う人のひとりとして振る舞う。時には赤城山の北面に潜むツキノワグマになることもあるかもしれません。そして、私は目の前の人を自分のこの広い庭に招きます。どこに案内するかは、その人によって異なります。同じ相手とは、だいたいいつも同じ場所を訪れることが多いかもしれません。
広大な庭に住むすべての生き物が私自身であり、その時々の私は、そのどれかに宿っているのだと思います。
私が時と場合によって変わるという感覚は、このようにイメージしているのです。
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