「犬も歩けば棒にあたる」の新解釈

文学・芸術

2025年、新たな一年が始まりました。この節目に、「いろは」の「い」にちなむことわざ、「犬も歩けば棒にあたる」を改めて考えてみたいと思います。このことわざは、「江戸カルタ」の冒頭に登場するもので、次のような意味が挙げられます。

① 出しゃばって余計なことをすると、思わぬ災難にあうというたとえ。

② じっとしていないで、いろいろなことをしてみると、思いがけない幸運にめぐりあえるというたとえ。

—「小学生のためのことわざをおぼえる辞典」(川嶋優 編集・五味太郎 絵)

このことわざには「災難」と「幸運」という相反する二つの解釈が並記されています。しかし、これらを分けるのではなく、一つの視点で捉えることができるのではないでしょうか。

禅宗における「棒」の役割

禅宗の修行では、「棒」は重要な象徴です。修行僧が迷いや執着に囚われたとき、師匠はその迷いを断ち切るために「棒」を使います。この棒は、肉体的な痛みを与えるものであると同時に、悟りや覚醒を促す道具でもあります。

この視点から見ると、「棒」とは単に罰や災難を意味するものではなく、気づきや成長を促す契機でもあります。「犬も歩けば棒にあたる」の「棒」もまた、私たちが日々の中で遭遇する出来事や障害と重ねて捉えることができます。

棒はプラスマイナスゼロ

森田療法では、「目的本位」の生き方を重視します。この場合、犬が歩く目的は、餌を探すことや自由に体を動かすことといった自然な欲求です。目的を持って外に出るとき、外からやってくる「棒」は避けられないものです。

しかし、重要なのはその棒自体を良し悪しで判断するのではなく、それをプラスマイナスゼロとして受け入れることです。つまり、「棒」はその瞬間の痛みや喜びにかかわらず、中立的なものであり、最終的には目的を果たす過程の一部として存在しているのです。

東洋思想における循環的な視点

東洋思想では、物事を分断せず、循環的・全体的に捉える視点が重視されます。「犬も歩けば棒にあたる」ということわざもまた、このような視点に立つとより深い意味が見えてきます。犬が歩いて棒に当たる時、その棒が災難であると同時に悟りへの契機にもなる。この二面性を理解すると、私たちはこのことわざをより受け入れやすくなるでしょう。

新しい年に向けて

2025年、私たちもまた「棒」と出会うことがあるでしょう。その棒が痛みを伴うものであれ、喜びをもたらすものであれ、それをプラスマイナスゼロとして受け止め、自分の目的に立ち返ることが大切です。禅宗の修行で「棒」が悟りを促すように、私たちも外からやってくる棒を通じて、自らの歩むべき道を見つけていければと思います。

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