「最善」という言葉の光と影:個人に留めることの大切さ

人間・社会

「最善を尽くす」という言葉は、多くの人にとって前向きで力強い言葉でしょう。私自身もよく使います。しかし、この言葉には意外な危険が潜んでいることに気づきました。たとえば、私が「最善を尽くす」と言う場合、それは「自分が良いと思う行動を取る」「しない方が良いと判断したら控える」といった、自分の価値観に基づいた選択を指しています。

ところが、ここに他人を巻き込むと、思わぬ問題が生じることがあります。なぜなら、私の「最善」と他人の「最善」は必ずしも一致しないからです。たとえば、暴力や窃盗は多くの人が悪いと認識するでしょうが、「他人の陰口を言わない」「遅刻しない」といったことになると、意見は分かれるかもしれません。

このように、自分の「最善」を他者にも求めると、そこに「悪」を排除する意識が生まれることがあります。個人が自分の価値観を守るために「悪」から距離を置くのは自然なことです。しかし、集団が「善」を決め、その「悪」を排除しようとすると、いじめや迫害、さらには歴史的に見ても大量虐殺といった悲劇に発展してきた事例もあります。

私にとって、「最善を尽くす」というのは個人の中に留めておきたい言葉です。自分自身の「最善」を大切にしつつも、集団が定めた「最善」には慎重であるべきだと感じています。

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