障害物は、人生の一部としてあるもの

日常

トレイルを走っていて、横に伸びていた太い枝に頭を思い切りぶつけたことがある。

「しまったなあ」と思いつつ、そのまま通り過ぎた。

もしこれが街中だったらどうだろう。

工事現場の鉄パイプに頭をぶつけたなら、「頭上注意の札くらい付けておいてよ」と不満のひとことを言っていたかもしれない。

あるいは、誰かが長い棒を運んでいて、そこに頭をぶつけたら、棒を持っていた人にイラッとしたかもしれない。

けれど今の私は、トレイルの枝も、工事中の鉄パイプも、誰かが持った棒も、どれも同じようなものだと思っている。

世の中には、自分の思い通りにならない障害物が、あちこちにある。

それをよけながら、ぶつかりながら、それでも進んでいくことが、まるでゲームのように思えるのだ。

枝や石、坂道といった自然の障害物は、「誰のせいでもない」。

ただ、そこにある。

街の中の出来事も、よく見れば同じである。

誰かの不注意や予測外のことも、広い意味では「自然の一部」として現れている。

だから、ぶつかったら「しまった」と思い、また進めばいい。

腹を立てて立ち止まっても、道は進まない。

ただし——街を走る時は、不注意な車には十分に気をつけよう。

これらの障害物はゲームのように楽しめても、命を賭けるわけにはいかない。

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