先日、海外出身の男性を診察したときに、興味深い話を伺いました。彼の出身国では、車の修理を自分でできることが当たり前なのだそうです。広大な草原や砂漠が広がるその国では、もし砂漠の真ん中で車が故障してしまったら、自分で修理できなければ命に関わることもあるとのことでした。
私はこれまで、車が故障したときは保険会社の無料レッカーサービスに助けてもらってきました。しかし、彼の話を聞いて、ふと自分の暮らしを振り返ってみると、身の回りには自分で修理できないものばかりがあることに気づきました。 ※私の「『できない』理論」では正確に言うと、私が一生懸命に車や機械の勉強をして、自分で修理できるようになることは可能ですが、「やりたくないから、しない」というのが正直な言い方です。ただし、この記事では「できない」という言葉を便宜的に用います。
冷蔵庫、エアコン、パソコン…。どれも日々の生活に欠かせないものですが、何かトラブルが起きると、専門の修理業者に頼らざるを得ません。つまり、私は「修理できる人」に依存して生きているのです。
かつては自分で対処できた時代
思い返せば、1990年に初めてパソコンを手に入れたとき、私はMS-DOSでディスクを操作し、Basicでプログラムを書いていました。うまく動作しないときは、試行錯誤しながら原因を探り、自分で対処していました。しかし、インターネットが普及し、技術が高度化するにつれて、システムの細部を理解することが難しくなり、不具合が起きても自分では対応できないことが増えました。
こうした状況は、医療の世界にも広がっています。
医療DXへの期待と不安
現在、厚生労働省から「デジタルトランスフォーメーション(医療DX)」への協力が求められています。医療のデジタル化が進めば、診療の効率化や利便性の向上が期待できます。しかし、一方で私は、医師が自分で不具合に対処できないシステムを導入することに対して、不安を感じています。
もし、診療中にトラブルが発生し、医師が「これは機器の問題なので、私の責任ではありません」と言ったら、患者さんは納得できるでしょうか? 私は医師として責任を負える範囲でしか、安心して医療を提供することはできません。
しかし、現在の日本では、すべての医療機関や医師に対して、複雑なデジタルシステムの導入が求められつつあります。国の方針に協力しつつも、医療の安全性をどのように確保すべきか、私自身も悩んでいるところです。
自分で対処できる環境の大切さ
こうした問題は、医療に限らず、私たちの生活全般にも当てはまるのではないでしょうか?
身の回りの機器が、専門家でないと手に負えないものばかりになっていくことに、不安を感じることはありませんか?
もちろん、すべてを自分で対応するのは難しいですが、少なくとも、不具合が生じたときにある程度は自分で対処できるものに囲まれて暮らしたいと思うのです。そのほうが、過度に他人に依存せず、「自分の力でやれる」という安心感を持ちながら生活できるのではないでしょうか。
自然の中で感じる自由と安心
こうした考えがあるからこそ、私にとって登山やトレイルランニングは特別な意味を持っています。自分で制御できる道具を持ち、自分の力を信じて行動する。その時間こそが、私にとっての自由であり、安心なのです。
技術の進化は素晴らしいことですが、私たちが本当に安心できるのは、「自分で対処できる」という感覚を持てることなのかもしれません。
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