最近、息子の影響でNBAのハイライト映像をよく観るようになりました。特に、スター選手のステフィン・カリーのプレーにはいつも驚かされます。彼の卓越したスキルと独特なプレースタイルは、多くのファンを魅了しています。
もしロボットが3ポイントシュートを打てば、カリーよりも精度が高いかもしれません。しかし、私たちが感動するのは、人間がそれを成し遂げるからこそです。大谷翔平選手の豪快なホームランや三苫薫選手の華麗なドリブルも、私たちと同じ人間が生み出しているからこそ、心を打たれるのです。彼らのプレーは、私たちの内に眠る何かを呼び覚ます力を持っています。
スポーツの「心を動かす力」は、芸術とも共通しています。絵画や音楽が私たちの深い感情に触れるように、アスリートのプレーも私たちの内なる何かを目覚めさせます。ただし、彼らは観客のためにプレーしているのではなく、自らの限界を知るために挑戦し続けているのです。ミュージシャンのデヴィッド・ボウイ(1947-2016)は、「他人の期待に応えようとしたら、最低の作品ができてしまう。アートは自分の中から動き出すものだ」(YouTubeチャンネル「翻訳ミュージシャン」より)と語っています。この言葉は、スポーツにも通じるものがあるのではないでしょうか。https://www.youtube.com/embed/R-K4cEhyRu8
医学はサイエンスに基づくアートである
「医学はサイエンスに基づくアートである」という言葉を残したのは、内科医のウィリアム・オスラー(1849-1919)です。医学は、知識や技術だけで成り立つものではありません。もしそれだけなら、コンピュータやロボットが医師に取って代わるでしょう。
医師の仕事には、病気を把握し、治療法を選択し、患者と向き合うという多面的な要素が求められます。患者の症状だけを見るのではなく、その場の状況や心理的側面を考慮し、最適な治療を選び取ることが重要です。これは、単なるデータ処理ではなく、個々の瞬間に適した判断を下すというアスリートに似た「アート」の側面を持っています。
例えば、同じ病気でも、その場の状況によって最適な治療法は異なります。ある時には励ましが必要かもしれませんし、また別の場面では冷静な説明が求められるかもしれません。医師が持つ洞察力や経験、患者との対話を通じて、最も適したアプローチを見つけ出すことが、まさにアートのようなプロセスなのです。
しかし、現代の医学は制度化され、効率や標準化が求められる一方で、こうしたアートとしての側面が軽視されることもあります。それでも、医療の現場には、科学的な正確さだけでは説明できない、患者との関係性や直感的な判断が必要とされる場面が数多くあります。私は、この「医学のアート」の部分を大切にし、守り続けたいと考えています。医療が単なる技術の提供にとどまらず、人間の持つ本質的な治癒力を引き出すものであり続けることを願っています。
そして、アートは社会の要請に応えることによってではなく、内側から動き出すものなのです。
コメント
コメントさせていただきます。
医学はサイエンスに基づくアートというのは、病院というイメージを美術館に変えてくれる心地よい響きだなと感じました。
それは聴くだけ、眺めるだけではなく、言葉を交わし交流できる美術館です。その中では、患者自身もアートのように感じます。
たとえ、絶望感やトラウマを感じていても、それは剥き出しの命の美術品なのではないかなと思いました。
明るく美しいものだけがアートではなく、絵画も音楽も苦しみや悲しみ、叫び訴えたい事を表現したものは数多くあるように、また同じアーティストの作品でも、生涯の中で対極の作品を生み出す事もあります。
生きていく中で、体調が良い時も悪い時もあるような、感化されて気付いたり、様々な顔を持つ変化する美術品、そんなイメージが沸きました。
素敵な視点を共有してくださり、ありがとうございます。
確かに、美術館には喜びや希望だけでなく、苦しみや絶望を表現した作品も数多くあります。鑑賞者が作品と向き合い、何かを感じ取り、時には自分自身を重ねることで、そこに新たな意味や価値が生まれるのかもしれません。
患者さん自身も「変化する美術品」という考え方は、とても印象的です。体調や気分が日々変わるように、その時々の姿が持つ意味や価値も変わる。それは決して「良い・悪い」と単純に分けられるものではなく、生きているからこそ生まれるダイナミックな表現なのだと思います。
病院が美術館だとすれば、そこにいる患者さんも、医療者も、それぞれが作品であり、時に鑑賞者でもあるのかもしれません。そう考えると、病院という空間が少し違ったものに感じられてきます。