精神科の診察室では、「朝起きられない」「食べられない」「仕事に行けない」「学校に行けない」といった訴えがよく聞かれます。こうした状態に対して、精神療法や薬物療法で改善を試みるのが一般的なアプローチですが、私はそこに別の視点を持っています。
多くの場合、これらの「できない」は、「できるけど、しない」に言い換えられるのです。この言葉に対して抵抗を感じる人もいるかもしれません。なぜなら、「できるのにしない」ということは、社会的にネガティブな評価を受けやすいからです。
しかし、私はむしろ「できるけど、しない」ことこそ、自然な判断であり、自然な態度であると考えています。本来、動物は生死をかけた場面でだけ、ベストパフォーマンスを求められます。それ以外の時は、決して全力を出してはいけないのであり、自然にそのように行動します。
神経症治療において重要なこと
まず、ここでお伝えする内容は、神経症の治療に関する話です。病識が不十分な統合失調症や精神病状態には当てはまらないため、その点を注意してください。
「うつ病」については、精神病性のうつ病と抑うつ神経症(否定的観念へのとらわれ)とを区別する必要があり、抑うつ神経症は神経症として治療が可能だと思います。
そして神経症治療は、単に心理職に任せればよいというものではありません。統合失調症や精神病状態ではないことを適切に診断した上で、神経症に特化した治療を進めなければ、本質的な改善にはつながらないのです。そのため、神経症治療を専門とする精神科医の存在には意味があると考えています。
「できるけど、しない」ことを否定しなくていい
たとえば、私はYouTubeのマラソン実況を通じて、「他人の指示で全力など出してはいけない」ということを示しました。故障のリスクの大きい長距離走では「全力は出せるけど、出さない」という自然な判断が必要だからです。若年者に超長距離走が推奨されない理由は、身体的な未熟さもありますが、心理的な未成熟さゆえに不自然さを強制されてしまうおそれがあるからだと思います。
- 「起きられるけど、起きない」
- 「食べられるけど、食べない」
- 「会社に行けるけど、行かない」
- 「学校に行けるけど、行かない」
これらの行動の選択が、その時の自然な態度なのです。そして、それを否定する必要はありません。
もちろん、起きなければ、食べなければ、仕事や学校に行かなければ、それ相応の不利益はあります。しかし、その不利益を理解し、受け止めた上で「しない」と決断するのであれば、それでいいのです。
他人や社会の要請に盲目的に応えるのではなく、不利益や批判を承知の上で「自分が選択した結果として、しない」という態度を取ることは行動選択権を握ることになります。私が休職・休学の診断書を書かない理由のひとつは、診断書はこの行動選択権を奪うことにつながるからなのです。
行動選択権を手放さないことの重要性
私自身、精神科医であり、薬の処方をする機能的な能力はあります。しかし、私は処方をしません。そのような医師の存在が神経症治療の選択肢として必要だと信じるからです。処方しないことによる私自身の不利益があったとしても、それを受け入れています。私も「できるけど、しない」を選択しているのです。
神経症の治療において、「不安だから外に出られない」という言葉をよく聞きます。しかし、この言葉をもう少し掘り下げてみると、
「不安だ。外に出ることの利益と不快感を比較して、出ないことにした」
という考え方に変えることができます。
すると、外に出ることの利益が不快感を上回ると判断したとき、自然と外に出るようになります。ここで重要なのは、「不安だから出られない」と自己決定権を手放すのではなく、自分が選択した結果として出ないことを受け入れるということです。
社会の圧力に流されず、自分の選択を尊重する
神経症の方々に対して、「すべきだ」「こうしなければならない」と(不自然な)圧力をかけることは避けたいと思っています。しかし同時に、「○○しない」という選択が、自分の意思としてではなく決まってしまうことも避けたいのです。
大切なのは、「できるけど、しない」という選択を、自らの意思で行うことです。
行動するもしないも自分次第。自然な態度を自ら選択する力を身につけることが、神経症から回復するための大きな鍵だと私は考えます。
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